James Nachtwey in Sudan
James Nachtwey



 ジェームス・ナックウェイは、レバノン/エルサルバドル/南アフリカ/インドネシア等の取材でロバート・キャパ賞を5回、ソマリア/ルワンダ写真で世界報道写真大賞を2回、ソマリア報道でユージン・スミス賞を1回受賞しており、受賞作品はそれぞれみなショッキングかつセンセーショナルなものであったが、大きな賞こそ受賞していない1993年のスーダン写真もまた、スーダンで何が起きているのか?スーダンはどうなっているのか?など、国際社会の目をスーダンに引き戻すのに十分過ぎるほどインパクトのあるものだった。

 食料配給センターで撮られた写真は、人間とは何か?人権とは何か?を問うに足るシーンを写し出していた。

 近年ナックウェイは、スーダン・ダルフール地域でのWFP(国連世界食糧計画)の活動を支援する為にWFPの公共広告に登場し、「私が記録してきたことは、記憶から消されても、繰り返されてもいけない」と警告を放った。
ジェームス・ナックウェイ スーダン作品(錦織選)
         
 
  1993 Sudan 1   1993 Sudan 2   1993 Sudan 3   2004 Sudan  
 
◇NMS内関連リンク◇  ピュリツァー賞  世界報道写真大賞  ロバート・キャパ賞  Four Awards


 〜◆ スーダンという国 ◆〜

 −国名:スーダン共和国(The Republic of the Sudan)
 −人口:3,361万人(2003年)
 −首都:ハルツーム(人口約300万人)
 −民族:アラブ系40%,アフリカ系31%,ペジャ族7%
 −宗教:イスラム教(主に北部),キリスト教(主に南部),土着宗教

 スーダンは、アフリカ大陸最大の面積を持ち、北部@
 砂漠地帯のイスラム教を信奉するアラブ人と、南部@
 サバンナのキリスト教を信奉する黒人民族で構成され
 るアラブ人とアフリカ系黒人が混在する国家である。
 1956年に独立したが、政府がアラブ民主主義を推
 し進めた為、北部のイスラム教勢力と南部のキリスト
 教勢力が衝突を繰り返す結果となった。1983年か
 ら20年以上続いた内戦では、死者約200万人、国
 内外の避難民400万人以上との統計がある。
 日本は1992年に、人権状況の急激な悪化を理由に
 対スーダンODAを原則停止した(除く緊急・人道援助)。

 またスーダンは、2001年に起こった同時多発テロ
 の首謀者ウサマビンラディンを1991年から1996年
 の間匿い、1993年以降米国から「テロ支援国家」
 として経済制裁の対象とされた。2005年1月には
 北部政権と南部政権であるスーダン人民解放運動/軍
 (SPLM/SPLA)との間で和平合意が成立し、7月に統一
 暫定政府が樹立したが、地方の部族や政府系民兵組織
 を南北和平合意に取り込むことなど課題山積である。

 ↑ケビン・カーター(Kevin Carter:1960-1994)

  スーダンと聞くと思い浮かべる写真家がいる。

  1994年にピュリツァー賞を受賞した南アの写真家、ケビン・カーターである。
  1993年のスーダンは、1983年から続く内戦と干ばつの影響で深刻な飢餓状態に
  あった。スーダン政府は、その状況が国外に伝わらないよう取材陣を閉め出していたが
  空路スーダン入りしたカーターは、国連などの食料配給センターがあるアヨド村で撮影
  を開始した。ブッシュを掻き分けあてもなく歩き回っている内に、食料配給センターを
  目指す餓死寸前(?)の幼い少女に出会った。その少女を撮るためにしゃがみ込むと、
  そこへハゲワシが舞い降りてきた。
  その時撮った写真が翌年のピュリツァー賞(Feature Photography)を受賞した。

  カーターは、よりよい構図で撮るためにハゲワシがその羽を拡げるのを20分待った。
  が、ハゲワシは羽を拡げなかった。写真を撮った後ハゲワシを追い払い、少女が食料
  配給センターに向かうのを見届けたという。
  多くのメディアに掲載されたこの1枚の写真に国際社会は騒然とした。そして非難した。
  「写真を撮る前に何故少女を助けなかったのか?」と。
  カーターは、ピュリツァー賞受賞3ヵ月後の7月27日、南ア・ヨハネスブルク郊外の
  車中で一酸化炭素中毒死した。自殺と見られている。享年33才。

  アフリカ・スーダンにおける飢餓と難民の惨状を世界中に知らしめたケビン・カーター
  とジェームス・ナックウェイは、しばしば仕事を共にした友人であった。



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