アフリカの小国・ルワンダ


 ルワンダ... ウガンダ@国民に慕われた人喰い大統領アミン、コンゴ@コバルト埋蔵量世界一、ブルンジ@ルワンダと双子のような国家、タンザニア@サファリの本場 という4つの国に囲まれ、四国の約1.5倍の面積と神奈川県や大阪府とほぼ同じ人口(約900万人)を持つアフリカの小国は、1990年代の大虐殺がなければ世界から注目されることもなかったであろう。

 ルワンダでは、長い間フツ族とツチ族の間での争いが繰り返され、多くの犠牲者を出していたが、1994年4月6日のフツ族大統領・ハビャリマナ搭乗機撃墜事件を発端に、同年4月からの約100日間に80万人とも100万人とも言われるツチ族と穏健派フツ族が、フツ族によって虐殺された。この大量虐殺は、ヒトラーやスターリンあるいはカンボジアのポルポトが指揮したそれとは大きく異なり、カリスマ指導者不在の状況下で多くの民衆が関わって行われた特異な種族抹殺行為だった。

 1994年7月、ルワンダ愛国戦線(RPF)@ツチ族の全土完全制圧により大量虐殺は終焉を告げたが、その直後からツチ族の報復を怖れたフツ族が隣接国へ難民として脱出して行った。その数、約200万人。

 2006年8月時点では、RPF出身のポール・カガメが大統領としてルワンダ復興に邁進している。
 (Paul Kagame 48歳,2006年11月には日本を訪問することになっている)

※映画「ホテル・ルワンダ」は、ルワンダの高級ホテルのマネージャーだったポール・ルセサバキナの体験を基に製作されたが、カガメ大統領曰く、「映画の内容は事実と異なっている。誰かがルワンダの歴史を書き換えようとしている」。
 真実はいつも闇の中。。。
Rwanda Map
1994年4月半ば、ニャルブイェで多数のツチ族がマチェーテ、マスなどで虐殺された。
3人に1人がツチ族だったキブイェでは虐殺による死体は鳥たちへの贈り物となった。
南部のブタレには唯一のツチ族知事がおり、反政府勢力の根拠地になっていたが、
ブタレですら多数派フツ族のツチ族への虐殺行為を食い止めることはできなかった。


<ルワンダの虐殺記念館>

虐殺記念館の展示風景(ギコンゴロ)

首都キガリや地方都市ギコンゴロ等には虐殺記念館があり、
掘り起こして防腐処理を施した虐殺死体が安置されている。
ギコンゴロの記念館では約2万7千体のミイラ化死体を展示。


Genocide in Rwanda, 1994.
  Rwanda,1994 - A Hutu man who did not support the genocide. (Photo by James Nachtwey)   Zaire,1994 - Hutu refugees were struck by cholera. (Photo by James Nachtwey)      
 
  '04 WPP Photo of the Year   '94 Zaire Refugee Camp   '94 Genocide in Rwanda 1   '94 Genocide in Rwanda 2  
 
◇NMS内関連リンク◇  James Nachtwey in Sudan  Carolyn Cole in Liberia





 ◆ルワンダにおけるフツ族(Hutu)とツチ族(Tutsi)の争いの歴史◆

  ルワンダには、トゥワ族が先住民として住んでおり、そこへ農耕民族のフツ族が
  住みついた後、牧畜民族であるツチ族が13〜15世紀頃にやってきてフツ族を支配
  し、ツチ族の王国を築いた(と言う定説以外に近年、定住していった人々の中で
  自然と、農耕=フツ族、牧畜=ツチ族という集団が現れてきたとの説がある)。

  ルワンダ、ブルンジにドイツ人が入ってきたのは1894年。
  1898年のコンゴ国境付近でのコンゴ軍の反乱に対処すべくドイツ軍が派遣された
  のを契機に1899年、ルワンダとブルンジはドイツ領東アフリカに編入された。

  1914年にルワンダ、ブルンジ駐屯ドイツ部隊がコンゴ(ベルギー領)を攻撃した。
  ベルギー部隊は応戦し、1916年にはルワンダ、ブルンジは、ベルギー部隊に制圧
  され、1919年からはベルギーの委任統治が決定した(国連承認は1922年7月)。
  1946年の国連総会では、ルワンダ、ブルンジをベルギーの信託統治と決議した。
  このような背景で、ルワンダはベルギーの植民地としての道を歩み始めた。

  フツ族とツチ族の争いは、ベルギー領以前から存在したが、ベルギーが植民地化
  政策としてとった「ツチ族優越神話」が多数派のフツ族の反ツチ族感情に拍車を
  かけ、1933年から34年に行った人種IDカードの導入によりフツ族とツチ族の対立
  は決定的なものとなった。

  1956年10月の総選挙では、首長以上の上級職をツチ族が占め、国王の権威増大を
  図ったため、ツチ族とフツ族の対立が激化していった。

  独立を控えた1959年には、ベルギーの支援下でフツ族の反乱が起き、約15万人の
  ツチ族が国外へ避難した(ベルギーは、1950年代まではツチ族支持だったが植民
  地解放の機運が高まった頃から多数派のフツ族支持にまわった)。

  1961年、フツ族はツチ族の王政を廃止し、フツ族政権を発足させるとともにツチ
  族への弾圧と迫害をエスカレートさせていった。そして1962年7月にベルギーから
  独立すると、ツチ族への残虐な迫害を開始した。

  1963年には、ブルンジに避難していたツチ族がルワンダ侵入を企て、約1万人の
  ツチ族が虐殺された(報復として殺されたルワンダ国内のツチ族を含む)。

  フツ族の政権は1994年まで続いたが、残虐な迫害を受けていたフツ族は1987年に
  ウガンダでルワンダ愛国戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ北部へ侵攻
  したためフツ族政権との内戦が勃発した。

  1993年8月4日のアルーシャ協定によりルワンダ内戦は一旦停戦したものの、1994
  年4月6日のハビャリマナ大統領搭乗機撃墜(暗殺)を機に、フツ族によるツチ族と
  フツ族穏健派への大虐殺が始まった。ルワンダ・ジェノサイドの始まりである。

  1994年7月に、ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧してツチ族新政権を樹立
  すると、フツ族の隣接国への逃亡が始まった(200万人難民化)。

  1996年11月からフツ族難民の大量帰還が始まり、2006年現在のルワンダはカガメ
  大統領によって統治されている。


  <難民キャンプ>
  1994年7月にツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧した後、隣接国に
  難民として脱出して行ったのは、ルワンダ・ジェノサイドを実行した側のフツ族
  であり、80〜100万人が虐殺された側のツチ族が逃げ去ったわけではなかった。
  ジェノサイドの報復を恐れて難民と化したジェノシダレを国際社会が手厚く保護
  しているという奇妙な現実が、ゴマ@コンゴの難民キャンプには存在した。
  更に、一部のフツ族ジェノシダレは、難民キャンプへの援助物質の横流しで得た
  利益で武器を調達し、難民キャンプからルワンダへ攻撃を仕掛けるといった行動
  をとったが、難民キャンプ支援者達の間で周知の事実となっていたこの出来事も
  多数の人権擁護を優先する立場をとった国際社会は、手をこまねいた振りをして
  見ていた。石油などの利権が絡まないと先進国は積極的には動かないのだ。


  上述した争いの歴史を下表にまとめた



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